推薦文
『心ある道を歩く』のリンクを貼りながら芸術人類学者の中島智さんが、X(旧Twitter)に投稿してくださってきた文たちです。
中島智さんのこれらの投稿からお申し込みをしてくださる方が多くいらっしゃるのもあり、また、ここに僕が書いてはいないことのうちにある、中島智さんから観ることのできるポテンシャルの記述があると僕には感じられましたので、このレッスンへのお申し込みを考える方々への思考の参考として転載させていただきました。中島さん、ありがとうございます。
中島智さんの投稿より
自分がなにに悩んでいるのかわからない、自分を上手く肯定できない、言いしれぬどん詰まり感や限界みたいなものを感じている、もやがかかったように誰も何もめんこいと思えない、そんな方々のために、畏友・百瀬雄太さんが「心ある道を歩む」という対話型レッスンをはじめた。
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うまくやれなければ自分に価値がなくなるなどと考えてしまう誤謬に囚われがちなのは端的にいうと成果主義が植えつけられたせいである。教育機関での成績というシステムを引きずっているわけだ。うまくやれることと個人の価値にはなんら関係はない。そうした混線を解くレッスン
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自分の周囲にすぎない管見だけど、いわゆる天賦の才をもちながら燻っている方々に共通するのが過去に疾病などによる空隙を経験していること。それに何時ふたたび落ちこむかわからない不安が、誰かに期待されることを避けさせ、誰にも頼れない気分を生み、頑なに独立独行をモットーに据えてしまうこと。
不安に根ざした頑なさがもったいないのは、耳を閉ざしてしまうことにある。独立独行が他者への拒絶になっては本末転倒である。そうした自縄自縛からほどけていく機会として「心ある道を歩く」窓口はすこぶる有意に思える。自己評価から自己肯定へ、ほどけるためのレッスン。
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賢い人とそうでない人との違いは、いわゆる知識とか頭のキレとかではなく、いまなにができないか、わかっていないかが解っているのか、それとも、たいていのことはできる(はず)で、たいていのことはわかる(はず)と考えるのかという違いなのである。賢い人はすなわち、いまできることが解っている。
精神が弱まると、人は自分が世界のどまんなかになってしまう。この状態が長びくと「どまんなか癖」までついてしまう。保養保身のための一時避難所が定常化してしまう。どまんなかに居坐ると、自らの偏向性、偏務性、つまり魅力をもってエコロジカルに世界と関わっていくことすら忘れさられてしまう。
自分の賢さ、魅力がわからなくなった人、すなわち自分にできることが見えなくなった人たちは、たぶん「どまんなか癖」がついてしまったのかもしれない。それはどまんなかからは見えないからなので、辛抱強くつき合ってくれる第三者から教えてもらうのがはやい。